確実性と不確実性の選択バランス

確実性の結果が好きな人とは?

経験の中で得られた良い“結果”、想定できる範疇の当然の“結果”を求め続けるのが人の心理です。

それらは「確実性の結果」と言います。つまり、その人(個人)が安心・安全・快適であると断言・想定できる“結果”です。

人が生きていく歩みの中で、「確実性の結果」と「不確実性の結果(=確率の低い結果、予想できない結果)」が混在していますが、「確実性の結果」の方が人は大好き(安心できる、安全である、心地よい、幸せ感がある、気楽、など)です。

例えば、
・この食べ物は美味しいと知っているから食べる(不味いから食べない)
・この食べ物で腹痛を起こすことはないから食べる(腹痛になるので食べない)
・この道を歩けば何分くらいで駅に着くと分かってるから通る(あの道は遠回りだから通らない)
・この電車に乗れば目的地に着くから乗る(目的地を通り過ぎるから乗らない)
・毎日この電車に乗るから定期代を買う(毎日乗らないから切符を買う)
・降りる駅の改札が近いからこの車輌に乗る(改札からかなり遠いからこの車輌には乗らない)
・暇な時間にゲームをすれば楽しくなるからゲームをする(ゲームはイライラするからやらない)
・タバコを吸うと気が落ち着くからタバコを吸う(タバコは気が滅入るから吸わない)
・気分が心地よくなるからお酒を嗜む(気持ち悪くなるからお酒は呑まない)
・気が楽だからランチは毎日同じ人と一緒に食べる(楽しくないから普段話さない人とは一緒に食べない)
・味が安定しているので常連の飲食店に通う(知らない飲食店には行かない)
・面白かった映画や感動したアニメを何度も観る(有名でも難しい映画、意味不明なアニメは二度と観ない)
・旅行は仲の良い同じ友達と一緒に行く(一人旅や社員旅行は疲れるから行かない)
・・・・・・などのように、行動する先にある“結果”を理解した上で行動します。

その“結果”は、普段の“選択や決断”によって当然起こるべき“結果”でなければなりません。そして、想定内(許容範囲内)の「確実性の結果」を何の疑いもなく自然と受け入れます。
脳は“安心と安全の欲求”を犯したくないために、それに結びつく行動を指令するのでしょう。

多くの人は、「確実性の結果」が生じる“選択や決断”をしやすい、つまり類似行動の多い生活パターンになります。別の言い方をすれば、ワンパターン。マンネリ。平凡。‥‥そこでは、“思考”は反復され、“結果”の変化の幅は小さく、“結果”への喜怒哀楽の領域は狭いと言えます。

確実性の結果と違う結果

「確実性の結果」は、殆どが目先の単発的、短期的、短絡的な“結果”(例えば、快楽・快適・安堵などの再現性が高いもの)です。それらの“結果”によってもたされた情意・情緒に持続性はなく、依存的に継続してその結果を求めなければならない状況に甘んじます。

その行動の集合群が、その人の生活=人生となり得るわけです。この状態を平穏と捉えるか、マンネリと捉えるか‥‥これも思考の選択のひとつなのでしょう。

ただ人の生活=人生は、そんな単純ではありません。

何らかの要因で予想さえもしてなかった“違う結果”になることもあるはずです。いわゆる「不確実性の結果」です。

「不確実性の結果」に遭遇したことで、ストレスを感じる人、不安になり電話やSNSなどで人との繋がりを求める人、憂うつになる人、不満を言う人、八つ当たりする人、責任転嫁する人、などがいます。つまり、“不快感”や“不愉快さ”を脳に焼き付けてしまったわけです。

“不快感”や“不愉快さ”に繋がる「不確実性の結果」を体験すると、人は、その結果をもたらした言動を回避しようとします。抑制力の一部です。

極端な人は行動範囲が狭くなり、行為が限定されてきます。動物の本能的な行動と同じです。
子どもの時の冒険心や挑戦心は大人になるにつれ失われ、日常生活の中に安全と安心の獣道的テリトリーのような見えない枠の中を往来することになります。

不確実性の結果を楽しむ

不確実性の結果(=確率の低い結果、予想できない結果)」は、未知の領域(枠外)であるため不安が先立つのは当然ですが、それでも未知の領域に飛び込める人たちが数多くいます。飛び込むと言っても様々で、無計画な人、行き当たりばったりの人、慎重な人、綿密な人もいます。

共通点は、好奇心、冒険心などの強い人が多いこと。

質の悪いストレスをそれほど感じず、楽しんでいるようです。どのような結果になろうとも臨機応変に対処し、考え、次の行動を選択したり、決断したりします。
体験していないこと、知らないことへの関心から「不確実性の結果」に繋がる“選択と決断”の行為を、トライ的に行なっているのでしょう。

例えば、
・この食べ物を口にしたことないから、味見してみよう
・この食べ物を知らないから一度食べてみよう
・この道は駅へたどり着くのか分からないから行ってみよう
・電車以外に徒歩や自転車、バスなどを使って通勤してみよう
・降りる駅を変えて歩いてみよう
・朝どんな人たちが乗っているのか、車輌を変えてみよう
・良し悪しやクリエイターのことを考えながら、色々なゲームをやってみよう
・色々なタバコを吸ってみよう
・色々なお酒を嗜んでみよう
・ランチはできる限り違う人と会話しながら食べよう
・グルメサイトを確認しながら、多くの飲食店に足を運ぼう
・国やジャンルに拘らず、映画やアニメを観てみよう
・旅行は色々なパターンで行ってみよう
・・・・・・などのように、行動する先にある未知の“結果”を楽しむつもりで行動します。

『失敗は成功の母』と言われているように、失敗という“結果”に対してもポジティブで、一つの“結果”として有意義的に受け入れていると考えられます。

トライしたことによる「不確実性の結果」は経験値により、いつしか「確実性の結果」になり得ます。
“なり得る”と表現したのは、ならないこともある、ということ。つまり、一度出た結果が二度目も出るとは限りません。
例えば、オリンピックでの金メダル獲得、全国大会優勝、オーディション合格、模擬試験一位、恋愛成就、記録会自己ベスト更新、など複合的な要素が複雑であればあるほど「不確実性」のままです。

このような特殊な事例は別として、仕事や特技などの生活範囲の中での「不確実性の結果」による経験値が重なることにより、自信と確信が生じます。「確実性の結果」に繋がる行動を続けながら、次の未知の領域を探し求めていきます。

未知の領域へトライできる人は“目標的”よりも“目的的”な指向性を備え、プロセス体験の中で、より良い結果を引き出そうと努力しているのでしょう。研究者のように探究心が溢れているのかもしれません。

このような方は「不確実性の結果」を求めているというわけではなく、「確実性の結果」を疑い、「確実性の結果」よりも良い“結果”があるのでは? と考えて動いています。
さらに、そこへたどり着くまでのプロセスを模索、試行して、苦しくてもプロセスそのものも楽しんでいるようです。

不確実性は冒険

「不確実性の結果」は、今までに経験してないところの先にあります。
オリンピック金メダリストでも4年後の連覇は未知の領域です。4歳(4年)も上乗せすることは、肉体的にも精神的にも大変だと予想できます。
高校野球児の甲子園での春夏連覇、箱根駅伝の四連覇、高校ラグビーの花園四連覇、プロ棋士の連勝記録など、当事者からすれば未知であり、周囲からの影響力も含みながらトライし続けていくわけです。

「不確実性の結果」を得るための活動は、長期的、持続的な観点で見た時に、知らない大国や大陸を冒険しているような生き方なのでしょう。
物語で例えると、ロード・オブ・ザ・リングや西遊記などが参考になるでしょうか。
目的地はあるのですが、その地が明瞭ではなく、指南書もなく、情報を仕入れながら進んでいくしかない状況は、相当なエネルギーが必要になります。

それでも勇気を持って突き進むのは、それだけの目的、信念、ビジョンなどを強く抱いているからと言えます。

不確実性の結果に溺れる

「不確実性の結果」を快楽的、短絡的、限定的に受け止める人がいます。
この手の場合、依存的になる危険性もあります。ギャンブル、投資、詐欺などはその部類です。勝率は読めないはずですが、得となる結果を求めて止められなくパターンに埋もれます。

世界的にも知られているパチンコにハマる日本人は、「不確実性の結果」に溺れる人たちです。そこから自力で脱出できず、長年依存してしまう傾向が多いように感じます。

確実性と不確実性のバランス

『人生の行く先は誰にも分からない』と言う方もいます。

正確な“結果”は正直分かりません。
ただ、いくつもの“結果”を想定することもできます。怠ければ! 妥協すれば! 続ければ! 違反すれば! 努力すれば! 挑戦すれば! ‥‥

どんな“選択や決断”をしても、それに対する「確実性の結果」と「不確実性の結果」が付き纏います。

それらの“結果”について、自身がポジティブに受容できることが、次のステップに移れるポイントになるのでしょう。

先述したように、人が生きていく歩みの中で、「確実性の結果」と「不確実性の結果」は混在していますが、そのバランスが大切だと感じています。

確実性の結果」を求める行動だけだとマンネリ化した生き方になったりして、生きる意味を見失うこともあるでしょう。稀に遭遇する「不確実性の結果」に対して反発的になります。

目的感のない「不確実性の結果」を求めすぎる行動が多すぎると、現実を見失うこともあるでしょう。社会の中で生きていくことが苦痛になります。

目的的な「不確実性の結果」を求める行動が多すぎると、周囲の人たちとの距離感がわからなくなることもあるでしょう。最悪、孤立することになります。

どちらかに偏ってしまうのではなく、普段は「確実性」を求めているとしても、時に「不確実性」にトライすることは、見識・胆識(=決断力、実行力を有した見識のこと)も増え、自己成長することになります。

生きている間に世界の全てを知り得ることは不可能です。それでも自分なりの世界観を広げることは、人生の楽しさを上乗せしていくことになると思いませんか!?

行き当たりばったりでも良いのですが、できれば目的的な歩みの中でトライし続けることです。

そのために、生活の中で歩む目的を常に持ち続けることが重要だと考えています。