食べるためにシゴトをするのはダメ!?
「何のためにシゴトをするのか?」
と尋ねると、年齢が高ければ高いほど、「食べていくために」「生活のために」という応えが返ってきます。
今日食べる飯のために。明日の遊びのために。好きな服などを買うために。追っかけをするために。
仕事を嫌々していませんか?
「食べる」ということは、生きていく上で必要ですが、「食べる」という生得的欲求(低次元欲求)のために仕事を嫌々するのはナンセンスだと気づきました。
「シゴトをするために食べる」
という言い方が良いのではないか、と思えたのです。
(これは、日本だからということもありますが。)
教育にあてれば明日の一万、百万俵となる。
目先の得に飛びつくより、将来の得を創造することです。
自らのビジョンのために、今は辛抱して、未来に活かそうと考えていますか?
「シゴト」をするためには、肉体的なエネルギー、脳内エネルギーなどが必要です。
そのエネルギーに欠かせない要素を取り入れるために「食」があります。
「シゴト」というのは、会社組織などで労働することだけでなく、家事をやったり、子供と遊んだり、介護をしたり、地域の活動、ボランティア、シゴトのための勉強も生きる上での「シゴト」だと考えています。
では、「何のためにシゴトをするのか?」と問うた時に、理由は様々あるでしょうが、「楽しむため」「喜びを増やすため」・・・などと考えてシゴトに取り組んでいければ良いと思います。
もし、シゴトを嫌々しているようであれば、それは健康的でもないし、食も美味しくいただけないし・・・そんな人生はどうかと・・・。
シゴトを嫌々している人は、食べること自体が楽しみであったり、食べること自体が趣味であったりする人もいます。
確かに食べることは楽しいひと時です。
問題は、それがストレス発散的な食べ方、本当に1日の楽しみが食事しかないよう生活・・・将来的にメリットがあるとは思えません。
目先の「食べる」という楽しい時間のために、嫌なシゴトを辛抱する(この場合辛抱ではなく妥協?)のは、将来的にマイナス要因でしかないと感じます。
「辛抱する」ことは、先に大きな目標や目的があってこそ必要な時間であり、役に立つことだと思うのです。
冒頭の名言にもあるように、目先の「食」より、将来得られるそれ以上の「利得」 を得られるのであればその「辛抱」は、掛け替えのないものとなるはずです。
これが、「セルフコントロール」出来る人の行動です。
と言って、「セルフコントロール」出来ない人からすると、この目先の「食」を奪われることはストレス因子でしかありません。
それに、今のシゴトが嫌々だとしたら最悪な人生です。
であれば、「セルフコントロール」することを考えるなら、ただ「食」を「辛抱」するだけではなく、今のシゴトを楽しめるようにコントロールする必要があります。
「セルフコントロール」においては、“やらない”と決めるコントロールより、“やる”と決めるコントロールの方が効果的です。
「食」を「辛抱」する、“やらない”コントロールよりもシゴトを楽しむ、という、“やる”コントロールを行なうことが良いということになります。
シゴトが楽しめるのであれば、将来の「利得」のために辛抱することはそれほど苦にはならないでしょう。
そのためにも、「セルフコントロール」できる自分になれればいいのではないでしょうか。