私は誰か?(1)多重人的ペルソナと自覚
ネガティブな “私” であっても、ポジティブな “私” が向こうにいます。
ポジティブな “私” でも、ネガティブな “私” は後ろで待機しています。
決断力のある “私” でも、異性に対しては優柔不断になる “私” がいます。
仕事では几帳面でありながら、家の中ではだらしない “私” が活動します。
仕事では活気がないのに、得意なスポーツでは活発になる “私” がいます。‥‥etc.
私はその内側に、さまざまな性格・行動特性・思考・志向・嗜好・信念・価値観・感情・心情・夢・目標・欲望などが介在していて、どれが本当の “私” なのか分からなくなる時さえもあるわけです。
時には冷静になって “私たち” と向き合っています。“私たち” がお互いに知ること、お互いに承認することは大切なことです。
「私は誰か?」の答えを見つけることで、ライフスタイル、人生が変わる可能性もあると考えています。
私は私自身のことを、どれだけ知っていますか?
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多重人的な私?
“私”(自分・自身)とは、一人ではなく「多重人的存在」と言えます。つまり人は、多面性ある複雑な動物です。
例えば、子供やペットを可愛がっている人には、接する時のコトバ使いや表情が他人に見せるのが恥ずかしいほど、甘くて優しい “私” がいるのではないでしょうか。愛妻家・愛夫家の人には思いやりがあり、相手をリスペクトし、良い関係性を築くための術を持つ “私” がいることでしょう。
対象への優しいコトバ使いや表情、心使いや行為ができるのなら、会社・仕事先でも活かせればいいと思うのですが、実際には違います。それは恥ずかしいなどと思う “私” がいるからでしょうか!? それとも、仕事関係ではその優しさは不要と感じているのでしょうか? ――優しい “私” とは違う “私” が、場所を変えると出現するのです。
これは裏表があるとは言わず、対象相手や環境、状況、役割、責任などに適した “私” を使い分けて演じていると考えることができます。演じていると言っても、ウソの私ではなく「事実」の “私” を演出していると言えます。
自分より身分が上の方には媚(こび)を売り、下には強気、という人も「事実」の “私” です。時には優しく時には乱暴なDVをする人も「事実」の “私” です。主体的に他人を演じ、他人を騙す詐欺師も同様でしょう。第三者が操っているわけではありません。 ――圧力・権力・強制・束縛など第三者の介在がなければ、環境や対象に合わせた “私” を選び、その時の感情などをもとに無難な “私” を演出しています。
私のペルソナたち
人は人生を歩む過程で、色々な役割(ロール)があり、それに応じた能力(キャリア)を備えていきます。役割は個々人の環境などで変わりますが、同時期において一つではなく複数であることは事実です。
一つの役割を果たす “私” を一人と考えた場合、役割の数だけ “私” がいます。
大人になっても親がいれば子供の役割として接しています。子供がいれば親の役割です。結婚していれば夫・妻の役割、時には男・女の役割です。
職場での上司の役割・部下の役割、供給側の役割・需要側(顧客)の役割、民の役割、人助けの役割、個人の役割など様々です。(※ドナルド・E・スーパーのライフロール論に近い)
役割分担された一人ひとりの “私” がペルソナ(概念的人物像)として表面化し、場面で使い分け、演出していることになります。(※カール・G・ユングのペルソナ概念とは違うかな?)
例えば、子育ての主婦の場合、母のペルソナ(『母親の顔』と称されること)、妻のペルソナ、ママ友のペルソナ、(教育者としての)教師のペルソナ、女性のペルソナ、(お姑さんがいれば)嫁のペルソナ、(親がいれば)子供のペルソナ、個人(自我)のペルソナ、パートで働いていれば従業員としてのペルソナ、その職場で長年働いていれば上司・先輩などのペルソナを使い分けているわけです。
男性より女性の方が器用に、かつ自然に使い分けている印象があります。
世の中には、その役割を放棄する人たちもおります。出生児をトイレや川へ捨てたり、児童虐待や子供に性的暴行したり、不倫や家庭内暴力・DV、最悪殺害したりすることさえもあったりします。
ペルソナにリンクする内面
そのペルソナにリンクする内面的な思考・意識・感情・行為は、各々違うはずです。
母・父としてのペルソナの内面には、愛溢れる人もいれば、憎悪の感情や自分勝手な思考を持っている人もいます。妻・夫としてのペルソナの内面には、愛情深い人もいれば、怒りや冷たい感情、人を見下す特性を持っている人もいます。
結婚当初の妻・夫ペルソナは温かくて優しいペルソナでしたが、数年後には冷ややかで怠惰な妻・夫ペルソナに変わる人もいます。
どちらの場合も既に “私” に備えられている内面がペルソナとリンクすることで、その場面の “私” が具現化・表面化されているわけです。
例えば、優しい親心の内面を上司ペルソナにリンクさせれば、優しい上司になれるのです。
それぞれのペルソナは、“私” の内面から反映されているものです。『あの人の意外な一面を見た!』という表現をしますが、普段とは違う内面とリンクしたペルソナが表面化したからでしょう。つまり、ペルソナはウソの自分ではなく、全て自分・自身です。本来は‥‥。
偽りのペルソナは疲れるだけ
しかし、稀に自分・自身を偽り(自己欺瞞)、借りた、あるいは自分・自身で作り出した(キャラ的)ペルソナで役割を果たそうとしている人がいます。
タレント・芸能人ならまだしも、一般人にメリットはあるのでしょうか?
もし偽りの(キャラ的)なペルソナで装飾している場合、最期まで持続できる(演じきれる)のか、冷静に見極める必要があります。最期まで演じきれないのであれば、早急に対処しなければなりません。生活の中で、キャラのための偽りペルソナでは、ただただ疲れるだけだと思われます。
偏った私
「自分が嫌いな私」「自信のない私」「孤独な私」「人を信じられない私」「陰険な私」「何もしたくない私」「楽をしたい私」「私を認めない私」「未来のない私」「私がいない私」……
誰もが保有しているだろう “私”。
“私たち” の中から一片に偏った “私” を選び日々を過ごしている場合、直面する何かしらの問題を抱えている可能性があります。
それは後ほど記載しています「自己概念の形成」に関与していると言えます。
「好き嫌い」を評価する私
今までお会いしてきた人々で『自分が好き』と思う人より、『自分が嫌い』と思っている人が多いように感じます。
『自分が好き』『私が嫌い』と客観的に評価しているのは、別の “私” がいるからでしょう。自己否定も同様に考えると、“私” を否定する別の “私” がいるからです。
ではなぜ、別の “私” は「嫌い」と評価しているのでしょうか?
人には何かしらの基準(価値観など)があって「好き嫌い」を判定します。「自分が嫌い」と評価している “私” にその基準を具体的に訊いてみて下さい。基準を上回ることができたら「好き」になれるのか、その基準自体を下げることはできないのか……自己対話(セルフトーク)してみるのです。
「嫌い」になっている理由があるのですから、反対の「好き」になる理由や状態を知っておく必要があります。「私が好き」の “私” を見つけ出すためにも……。
自己観察
外部の機関、専門家などに相談するレベルの “私” でなければ、まず出来るとしたら、自分・自身の内部にいる “私たち” には、どんなタイプがいて、どんな性格で、どんな考え方で、どんな経験をして、どんな嬉しい出来事があって、どんな望みを持っていて、どんなことが出来て、どんなことが好き(嫌い)で・・・なのか、客観的かつ現実的に分析し把握(自己観察)することでしょう。
そして、「これから、どんな人になりたいのか?」……
に共感してくれる “私”、協力してくれる “私” をリーダー(これをセルフ・リーダーシップと呼びます。)にしながら、その他の “私たち” をコントロール(これをセルフ・マネジメントとします。)していく能力・勇気・品性(人格)を磨いていくことになります。その過程で人は成長していくことができるのではないでしょうか。
“私” の中の「多重人的」な “私たち” を知ることは大変なことですが、大切なことですし、意外に楽しいかもしれません。
自覚とアイデンティティ
自分・自身の役割(置かれている状態)、地位・立場、思考特性、志向、使命、価値、能力、欠点・弱点などを主観的かつ客観的に知っており、意識していることを「自覚」と言います。
例えば『自覚の足りない行動』とは、もし知っていたとしても意識していない行動です。
「自覚」をもっともらしく伝えるために「私は、私のことを覚(さと)っている・知っている」とします。
それを説明しやすいように、ジョハリの窓と呼ばれるものをベースに下図を作成しました。
“私A”+“私B”+“私C”= “私” のこと、と理解するところから深く『“私”を知る』ことになります。
何を “知る” のか? という点では、
主に身体的、能力的、社会的、精神的、感情的に関する意識と言われています。(ウイリアム・ジェームズ氏、シェイベルソン氏、ブラッケン氏などによる)
“私” のことを知れば知るほどに、年齢を負うごとに、経験が増えるごとに、人脈が広がるごとに、「自分が何者なのか、何をしたいのか、何ができるのか、他者からの評価は‥‥」などを自覚している私は、自分自身の客観的イメージをも変化させていきます。
自己概念は変えられる
例えば自己紹介する時に、紹介する相手に対する自分の役割や立場、環境、状況などによってペルソナを使い分けるわけですが、その際に “私が抱く私のイメージ” が介在しています。
ポジティブかネガティブかは別として、“私が私に抱くイメージ” は自己概念=セルフイメージ(またはセルフコンセプト)と呼ばれています。経験や学習・知識などの個人的要素、家庭環境や友人関係、社会との関わりなどの外的要素などを、主観的および客観的に分析しながら取りまとめて抽象化することで、それは形成されていきます。
自己概念は年齢を重ねるごとに固定化されていきますが、事件・事故・不幸などのショッキングな体験によって変動することもあります。意図的に変化させることができるのが、自己概念の特質です。
また、現実の “私” のイメージと理想の “私” のイメージが混在している場合がほとんどです。理想といっても異次元的な妄想ではなく、現実味ある理想の姿です。
「このような私になりたいのに、今の私はこんな感じ」・・・と、イメージにギャップがあると自己卑下的になり、自信のない風のペルソナが現れることもあります。逆に一致している時は、自信のあるペルソナが現れていることでしょう。
前記していたペルソナたちは、ほとんどが “対象” あっての自分・自身の役割を表現しています。“対象” に合わせてペルソナを面に出しているわけです。
そうすると、どうしても “対象” からの “私” に対する評価、感想、反応などが生じます。つまり、“他人が抱く私のイメージ” というものを意識してきます。
その “他人が抱く私のイメージ” と自己概念が大きくズレていたり、違和感や疑念などを相手に感じさせていたりする場合もあります。理由は様々ですが、例えば自覚する情報が不足していたり、生活環境の中で障がいがあったり、トラウマなどの可能性もあります。
自己概念は、自分自身が作り出した抽象的なイメージです。意識的に変えることは可能なわけです。
私のアイデンティティ
『これが本当の私だ(This is the real me.)』(エリクソンの手紙引用)、と自我認識(エゴ・アイデンティティ)する方は多いかもしれません。
「自分が何者なのか、何をしたいのか、何ができるのか、などが分からない又は否定的な自我」の状態に陥っていることを「同一性拡散(アイデンティティ拡散症候群)」と言います。引きこもりやニートなどに見られる症状とされていますが、その他にも“大人の幼稚化”“中高年層のヤンキー化”が自覚なしに日常化してしまうことも、その部類ではないかと考えています。
子供の時から、「お前はバカだ」「お前は私がいないと何もできない」「君は長男だから家を継ぐものだ」「君は大人になったら○○になりなさい」……などと何年も言い聞かせられていると、自身の意識や思考もそのようになってしまう現状があります。これはある意味、セルフ・アイデンティティ構築の恐さです。
「セルフ・アイデンティティ」とは自己同一性と訳されていて、社会・他人と関っていくことを前提に構築した自分自身の核となる概念です。
- 他人から否定し続けられる → 自己否定的になる
- 他人から否定される → 反発心からアウトロー的になる
- 他人から承認される → 自己肯定的になる
- 他人から承認され続ける → 慢心になる?
これらは単純な一例ですが、社会の中での自身の役割や価値を自覚し、他人から承認されることで、自信をもって歩むことができるのであれば、良い状態と言えます。
例えば、「あなたは優しい人」「あなたは率直な人」「あなたは○○に優れている人」「あなたは勤勉な人」「あなたは綺麗好きな人」……など、他人から言われることと、自身の経験をもとに(それが適合していると)自覚し受容することで、普段の行動や思考がアイデンティティを構築し、ペルソナへと反映されていくわけです。
どのペルソナであっても根幹となる “私” が主体的に活動することが重要です。
しかし、家庭環境や学校生活の中で他者による制御(コントロール)やマインドコントロールによって、アイデンティティが他者構築された方もいるでしょう。
『こんな私は嫌!』『今の私を変えたい!』・・・と考えているとしたら、それはアイデンティティに対する警告です。勇気を奮い起こして、今の環境を変えることをオススメします。
生活環境や人間関係性はアイデンティティ構築に影響します。
アイデンティティは、年齢関係なく再構築を繰り返します。それは生活の中での経験、環境、人生のイベント、事件、あるいは思考や思想などによって変化するからです。
その中で大きく影響を与える要素の一つが「価値観」と考えています。
正しい・正しくない、合理的・非合理的、論理的・非論理的、現実的・非現実的などが同時に混在しているのがヒト科の特質です。
様々な経験・体験は事実としても、その解釈、捉え方(例:ポジティブかネガティブかなど)によって、結果にはズレ・誤差が生じていると言えます。
ペルソナをコントロールする“私”
自分・自身の中の各ペルソナを、一度観察(可視化)してみると面白いものです。
ドラマの台本の一部ように、現在の役柄とその性格などを書き出します。それぞれ名前など付けるのも良いかもしれません。誰にも見せる必要はありませんから、正直に、好きなように‥‥。
色々な “私” の存在に気づき、そこから次への展開となっていきます。
自分・自身を知ることは、普段活動する各ペルソナに応じた感情、品性(人格)、能力、性格などを見極めることと同じです。そして、“私たち” をまとめ上げ、良い方向へコントロール(統制・制御)していくことが課題の一つになります。
つまり、コントロールする “私” が基準(ベース)になってきます。
ただ、各ペルソナに潜む内面にギャップ(落差・格差)があり過ぎると、内部エネルギーを余計に消耗し、ストレスにもなるでしょう。
全てのペルソナの内面的ベースが、愛情や奉仕、誠実などであるならば、コントロールは難しくないはずです。このペルソナは愛情、このペルソナは憎悪、というようにギャップがあるなら、コントロールするのも大変です。場合によっては、あるペルソナ(の私)を見ない振り、または正当化してしまうこともあります。
例えば、外での活動や職場では几帳面で綺麗にしている人であっても、家の中は乱雑(ゴミ屋敷)という人もいます。外では誠実で真面目な人でも、家では幼稚だったり乱暴だったりする人もいます。
最近、公務員(税金から所得を得ている人)である警察官や学校の先生、県や市の行政に携わる人の犯罪が目立っている(メディアの指向もあるのでしょうが……)気がします。警察官が盗難・暴行し、先生が生徒や子供をターゲットに犯罪行為をし、行政に携わるものが他人のお金で私腹を肥やし……真面目に仕事をしている時のペルソナと犯罪中のペルソナが同時進行しています。
どのペルソナが彼らをコントロールしているのかは知る由もありませんが、自己内の内部エネルギーの衰退、低下があることは間違いありません。
このような人は一部でしょうが、自己をコントロールすることは重要な能力であり、品性(人格)を決定付けてしまうほどの機能的プロセスでもあるわけです。
この能力が「パーソナル・ケイパビリティ」であり、その各々の実践が「セルフ・マネジメント」または「セルフ・コントロール」になってくるのです。
私に対するセルフトーク
- 『あなた(=私)はどんな人ですか?』
- 『あなた(=私)の長所・短所は?』
- 『あなた(=私)の強みは何ですか?』
- 『あなた(=私)の尊敬する人は?』
- 『あなた(=私)のモットーは?』
- 『あなた(=私)の夢は?』
- 『あなた(=私)の価値観は?』
- 『あなた(=私)のなりたい自分とは?』