情報の咀嚼〜「わかる」は人によって違う〜
『知ってるよ!』『わかった!』
と言っても、その理解度の範囲は様々です。子どもや部下のその言葉を信じて任せたら、「わかってなかった」……ということはありませんか!?
『わかる』の理解度レベルは人それぞれのため、「分かってくれた!」と自身の物差しで捉えるのは、リスキーだと思いませんか!? 特に重要な事柄だった場合、「しまった! 分かってなかった!」では遅いのです。
そもそも『わかる』とはどういうことなのでしょうか?
「分かる」とは?
例えば・・・
写真やスーパーなどで初めて、“リンゴ”を見ました。
色や形、果物の一種であることを知ることができます。
それでも“リンゴ”のことを「わかった(知った)」わけです。
『リンゴを買ってきて』とお願いすれば買ってくることが出来ます。
次に、“リンゴ”を初めて食べることになりました。
赤い皮を剥いたら、中は白色です。
食べてみたら、甘い香りを漂わせるさっぱり甘さの果物です。
見た目より柔らかく、シャキシャキとした音が気持ちいいです。
食べ残したものは、時間が経つにつれ、徐々にクスんだ色に。
“リンゴ”の味や香り、食感そして特徴などが
新たな情報として「わかった(知った)」ことになります。
ある日、車に乗って家族旅行に行きましたが、
そこで低い木に赤い実がなっている畑を見つけました。
よく見ると、“リンゴ”が木に沢山ぶらさがっているのです。
そんな“リンゴ”の木が、畑に数えきれないほど植えてあります。
そこで働いている人たちが、“リンゴ”を1つ1つ、丁寧に手で穫っています。
箱に詰めて市場に出荷すると聞きました。
“リンゴ”の育ちや出荷に関することが「わかった(知った)」のです。
ある日、お母さんが料理をしていた時です。
そこに“リンゴ”がありました。
料理の材料として、サラダ、野菜ジュース、
カレー、デザートなどに入れており、それを飲んで食べて美味しいという体験をしました。
“リンゴ”は、そのまま食べる以外の方法に使われることを「わかった(知った)」ことになります。
「わかった(知った)」レベルは、
五感(視覚・聴覚・味覚・臭覚・触覚)を通して「わかる」こと、さらに知覚や分析などで、知的な情報をもとに「わかる」ことなどその人によって差があることになります。
時と場合によっては、「わかった」つもりになっているのです。
「わかった」つもりが、一種のパラダイムであると言えるのです。
「わかる」時の脳の状況
※ここでは「分かる・解る・判る」などの常用漢字は関係のないお話しです。
「わかる」とは、脳の中で消化していることです。消化不良だと「わからない」になっています。
消化不良を起こす要因は、取り入れたものが大きい、固いなどであったり、そもそも苦手で受け付けないものだったり、消化酵素が不十分であったり、機能が対応していなかったり(機能の成熟度が追いついていない)、などが考えられます。
五感からインプットされた情報を、すでに存在する長期記憶情報と組み合わせる「同化」という処理で、消化することができます。
人は経験・体験などによる情報を、
カテゴリーに分類することで
長期的に記憶します。
その記憶は、実体や真実そのままではなく、
自らの分析、解釈の中で
必要な要素のみを記憶します。
人の記憶が曖昧であるのは必然です。
新たなインプット情報が入ってきます。
その情報を、自らの尺で分析、解釈し、
記憶されているカテゴリーの中から
似たような記憶と結びつけ、
その“カテゴリー”の中へ放り込みます。
これが「同化」です。
例えば、
過去に出会った人のデータを基に、初めて会った人について、似たようなデータをその人と結びつけながら「この人はこんなタイプね」と、自身の内々で決め込んでしまうのです。
「このタイプは苦手である」、「このタイプは好み」、と初対面の人に対してもすぐに判断するのは、長期記憶と同化させることで「わかる」が生じるからです。(正確には「わかったつもり」であり、「わかっていると信じている」という感じ)
次の展開は、インプット情報により、長期記憶の中の情報を多少変形させ、新しい情報として消化を「調整すること」です。
これは、新たな情報とこれまでの長期記憶の情報とに差があることで、新たな要素であると判断すると、長期記憶の情報をバージョンアップするようなイメージです。
例えば、
「普通の味と聞いてたけど、実際食べたらメチャ美味いよね」
「今まで気づかなかったけど、こんな面もあるんだね」
ということがそうでしょう。
脳の中で「調整」が行なわれ、新たな「わかる」が生じるのです。
そして、インプット情報を「同化」も「調整」もできず、心理的な不協和状態となった時、人はその状態でいることが気分的に嫌で、それを解決するために「もっと知りたい」「わかりたい」という状態になります。
そこで納得(消化)するための情報をかき集め、それで「同化」「調和」が済むと、「わかる」が生じるのです。
ということは、
長期的記憶量、いわゆる知識が増えるということになります。
知識が増えれば、それを融合などしていくのです。
そこからアイデアなどが生まれてくるのです。
では、もう一つ例です。
カップにお湯を注いで3分待てば食べられるラーメン。
経験上、これは乾燥麺をお湯で戻して食べる、即席カップラーメンとして理解しています。
新たに、
お湯を注いで3〜5分待てば食べられる“うどん”が現れました。
この時、カップラーメンという長期記憶と「同化」させることで、即席アップ麺と同じカテゴリーに含めることができます。
記憶の「同化」によって、即席カップラーメンと同様のうどんがあることを知りました。
新たに、お湯を注いで3分待ち、その後お湯を捨てる“カップ焼きそば”が現れました。
この時、これまでのスープごと食べられるカップ麺と違うタイプ、
3分後にお湯を捨てることで、スープの要らない即席カップ麺が存在することを知りました。
これが記憶の「調整」です。
新たに、お湯を注いで麺をほぐして、捨てて、
この時に、従来のお湯を注いで規定時間待って食べるという即席カップ麺とは違うイメージを受けます。
「待たないで食べられるカップ麺?」
「カップラーメンじゃないの?」
これまでの記憶している情報との差があり過ぎて、
その不思議さが「同化」も「調整」もできず、
「それは何で待たなくて食べられるのか?」
という問題を解決しようと、人に訊いたり、
調べたり、実際に買って食べてみたりするのです。
そこで初めて、乾燥麺ではなく、生タイプ麺であることを知り、
お湯を注いで 乾燥麺を戻すという概念から、
生タイプ麺をお湯で温めてほぐして、ツルツル感のある
ラーメンが家庭で食べられるという感動が、
新たな即席カップ麺の概念を、長期記憶へと変換させるのです。
という例えでお話ししましたが、理解できましたか?
ここで理解して欲しいのは、
「わかる」という概念もそうですが、
人が「わかる」行為は増えれば増えるほど、同時に
そこには進化が周りで起きているということ。
ある意味、アイデアのヒントが隠されているということです。
それをインプット情報の「咀嚼」と言います。