自分自身が変わるのか?相手を変えるのか?
God, give us grace to accept with serenity the things that cannot be changed,
courage to change the things that should be changed,
and the wisdom to distinguish the one from the other.
自分自身の生きる過程において『変えられるもの』と『変えられないもの』が介在しており、『変えられるもの』については変えるために「勇気」が必要であること、『変えられないもの』に対して受け入れられる「冷静さ」や「謙虚さ」が(天からの)恵み≒才能・天性、と考えています。
この『ニーバーの祈り』の中では、『変えられるもの』と『変えられないもの』を見分けるために「知恵」が必要であることを示唆しています。
それでは『変えられるもの』と『変えられないもの』とは何なのでしょうか?
「変えられるもの」と「変えられないもの」
多くの人は、「変えられない(変わらない)もの」について「(冷静かつ謙虚に)受け入れられない」という現実があるかもしれません。
「知恵もなく、勇気もなく、冷静さもない。」
これが、多くの人の抱えている問題と言えます。
このことについてアドラー心理学では、
「変えられるもの」と「変えられないもの」の分別として、人間関係における「タスク(課題)の分離」、さらに物事に対する「肯定的な諦め(あきらめ)」という表現をしています。
「知恵もなく、勇気もなく、冷静さもない。」‥‥どのような人だと思われますか?
- 妥協している人
- 諦めている人
- 成長を望まない人
- 今に満足している人
- 自己中心的な人
- 自分の意見を言えない人
- 自分の考えが正しいと言う人
諸々ですが、こんな感じの人たちではないでしょうか。
冒頭の格言で意味することは、
「変えられるもの」とは、自身であり(未来でもあり)、「変えられないもの」とは、他者であり(過去でもあり)、「見分ける知恵」とは善悪分別の知恵と決断、と捉えています。
自身を変えることで他者に影響を与えるができますが、変え方を間違ってしまうと、自分の思い通りにしたいがために他者に意見をし、注意し、指摘し、命令し、貶し、悪口を言い、いじめ、差別し、時には強言と暴力で抑え込み、他者の態度や思考、価値観、信念までも変えようとします。
親の子に対する「教育・しつけ」とは名ばかりの激怒、暴行、虐待なども同様です。
すべての人は堅くガードされた心の変化の扉を持っており、
その扉は自分で中からしか開けられない。
説得や感情に訴えることによっても、
その扉を他人が外から開くことはできない。
他者を変えようと “ムリ” な努力をしていることは、フラストレーションが溜まる、すぐに責任転嫁する、上目線で批判する、悪口を言う、などの状態を続けることで、大切な時間を “ムダ” に過ごしているのです。
このような場合、人生を主体的に歩んでいる、とは言い難く、常に外部(要因)に影響されながら、感情を揺さぶられ、想いと現実のギャップに心の悲鳴をあげ、右往左往しつつ、満足のいかない人生に後悔しながら終止符を打つ、可能性大です。
ストレスの溜まる人生なんて、歩みたくないはずなのですが‥‥。
幸せと心豊かな人生を歩むためには、相手(他者)を変える努力より、自身を変えることに注力することが好ましいということが言えます。
これは現代のセルフ・マネジメント(自己マネジメント)として捉えると、コヴィー氏の「7つの習慣」にある「インサイドアウト」「刺激と反応のモデル」そして「関心の輪と影響の輪」にて理解することができます。
「変えられるもの」と「変えられないもの」として、「関心の輪と影響の輪」の考え方は重要です。
「刺激と反応のモデル」については、別ページにて