誤解?「ありのまま」と「あるがまま」
日本でも一世風靡した「アナと雪の女王」の姉エルサの唄にあった「ありのまま」現象。
【アナと雪の女王:2014年日本公開/Let it go 松たか子バージョン】
ありのままの 姿見せるのよ
ありのままの 自分になるの
エルサが日本語で唄う「ありのままの姿」「ありのままの自分」について考えると、
雪山にこもったエルサは“自我”の「ありのまま」‥‥エゴ・アイデンティティ(他人と関わり合いたくない、自分さえ良ければの単独的行動)
エンディングのエルサは“自己”の「ありのまま」‥‥アイデンティティ(家族の愛情や立場と使命などに気付いた社会的行動)
と言えるかもしれません。
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「ありのまま」の誤解
人気絶頂の世間では、「ありのまま」=「自分らしく」=「自分に素直に」などのワードが飛び交い、セミナーやカウンセラーが開かれていたようです。
『個性を大切に!』『自分に正直に!』『好きなことを!』『やりたいことを!』『自分の強みを活かす!』などの助言(アドバイザーやカウンセリング)によって、具体的な行動変容になったかどうかは不明ですが、もし具体的な教示がないままで、「自分らしさ」「ありのまま」を強調されてしまうと、ややもすれば「エゴイズム」を助長している状況も伺えました。
エゴイズム的「ありのまま」では、誤解のまま歩んでしまう可能性もあります。
エンディングのエルサのように、「ありのままでいい」「自分らしく」「自分に素直に」の前提条件は、社会の中の個人であって、社会から離れた個人ではないということと捉えると、「ありのまま」の自分とは何か?ということを考えてみたくなったのです。
ここからは完全に私の見解なので、『こんなふうに考えている人もいるんだなぁ』と思っていただければいいなぁ〜。
「ありのまま」と「あるがまま」の混成
辞書では、「ありのまま」と「あるがまま」が混同されている場合もあります。それに、同一のものとしてカウンセリングやコーチングしている人たちもいるようです。(ある意味、間違ってはいないです)
基本が『自分自身』であるため分ける意味もないかもしれませんが、『自分』と『自身』を分けていけるように、「ありのまま」と「あるがまま」も分けてみましょう。
漢字にすると意味合いに違いがあるのが分かります。
「ありのまま」→「有りのまま」‥‥所有の観念
「あるがまま」→「在るがまま」‥‥存在の観念
※「ある」を平仮名で使用されることが多々ありますので、あいまいになっているのが現状。
“自分自身”を見た時に、
「あり(有り)のまま」とは、現時点での備えている身体(身長、体重など)や能力、経験値、価値観、役割などの要素です。誰から見ても同じ情報で、あるいは他人との比較はなく、「私はこういう人です」と説明できることです。
“自分・自身”のうちの“自身”に該当すると考えることもできます。
「ある(在る)がまま」は、現時点での感情や表情、態度、行動、思考特性などの要素です。他の人から見て捉え方が違う状態であって、「私はこういう状態(状況)です」と説明できることです。
“自分・自身”のうちの“自分”に該当すると捉えることもできます。
例えば、機嫌の良い日の自分と、機嫌の悪い日の自分を比べてみると、機嫌の良い・悪いの状態は一貫性がなく一時的で、周囲の人たちから見れば自分への思い(感想、感情)は様々でしょう。他人がどう思っていようが、機嫌の良し悪しを素直に表現している状態が「あるがまま」の自分です。
機嫌の良い・悪いは関係なく「私は私」と言える要素は「ありのまま」の自身ということになります。
「ありのまま」はソフト面で内生的、「あるがまま」がハード面で外生的と言えるかもしれません。
となると、人の「あり(有り)のまま」と「ある(在る)がまま」は混成されており、一体化していると見なされてもおかしくないのかもしれません。
「人の個性」という概念で言うと、「ありのまま」の個性と「あるがまま」の個性の両方を備えた、自身でも自分を把握できないほどの複雑な生き物と言えます。
誤解を招く「ありのままでいいのよ!」
さきほど「現時点」というコトバを使ったのは、人は変化していくからです。
変化度合いは人によって、年齢や環境、人間関係などによって違いますが、「ありのまま」も「あるがまま」もバージョンアップ、つまり成長・向上することが可能です。可能性であって、成長・向上しない場合もあるでしょう。
例えば、
自分に自信がない、将来に不安がある、などの悩んでいる人に対して、家族や友人、カウンセラーから、「大丈夫、あなたは今のままでいいのよ!」と言われて、「そっかぁ。今の自分のままでいいんだぁ~」と思い込み、混沌を紛らわしながらこれまで通り日々を過ごすかもしれません。
心理用語での「システム浄化作用」と言うらしいのですが、自分の中にある不安・不満などを、周囲の声で除去(正確には、除去されているわけではなく閉じ込め)してしまう傾向は大いにしてあると感じます。
不安や不満があるということは、成長や向上をどこかで望んでいる自分自身があるということ。それを閉ざしているなら、「システム浄化作用」が働いているのかもしれません。
宝の持ち腐れの状態になっている可能性だってあるのです。
自我のままの「ありのまま」は自己満足に、そして「あるがまま」は「わがまま」になる恐れも介在しています。
それを回避するために、「ありのまま」とする自身を客観的に分析、理解、成長させながら、他者と共存できるよう「あるがまま」となる自分をおき、セルフ・マネジメント(自己を管理)することが必要であるといえます。
バックグラウンドあっての「ありのままとあるがまま」
富士山の詩を私は永いあひだ書いてきたやうに思ふが、
もともと富士山などといふものは
天を背景にしなければ存在しない。
「あるがまま」とは、一人では成り立ちません。
「ありのまま」とは、孤独では意味を成しません。
「あるがまま」と「ありのまま」を混成させた自己は、家族や会社・学校、友人やコミュニティなどの社会の中で存在しているから意味があります。
「ありのままとあるがままの自分らしさ」=「個性」とは、全体の中の一であることで成立することです。
その「個性」を活かす環境(ポジション)が重要であることを、草野心平氏の箴言に込められているような気がします。
富士山は、今の環境だからこそ「ありのままとあるがまま」の富士山が世界的に認められているのであって、もし、南アルプスの一角や高い外輪山に囲まれていたら・・・とイメージすると、(それはそれでいいんですが)世界遺産になった富士山ではなくなるのです。歴史も必要ですが、バックグラウンドあっての存在感だと思います。
人も同様です。バックグラウンド(背景)があっての「ありのままとあるがまま」の自分自身を見つけることが重要です。
見つけるというより、活かすということでしょう。
「自分の人生を歩む」ためにも必要な能力だということになります。